その著名なヴァイオリニストは、ハイフェッツの奏法を受け継ぐ流れにいる人なのだと噂では聞いていました。しかし、実際には見事に”現代的ヴァイオリン奏法”の代表選手のような弾き方で試奏しはじめたのです。片っ端から渡された楽器をどんどん弾いて行くのですが、どの楽器からも代わり映えの無い全く同じような音を出していました。まるで楽器の個性は関係なくどれだけ”音量”がでるか、その楽器がどれだけ彼の”弓圧”や”指圧”に耐えられるかだけを測っているかのように見えました。

ついにそばにいた誰かがM氏の楽器を彼に手渡しました。するとあれだけ豊かな倍音を含む素晴らしい音を奏でていたはずの楽器が、彼の”圧力”には全く応えてくれずに見事にピタッとその振動や豊かな響きを止めてしまったのです。彼も一瞬ビックリしたような顔をして、さらに圧力を加えたり弾く曲を変えたりしていましたが、結局最後まで楽器は応えてくれませんでした。ほんの少しだけ想像していたことではありましたが、やはりショッキングな約1分間の出来事でした。もっとも、もう少し時間があれば彼もその楽器の特徴を引き出すことに成功していたかもしれませんが。

そのM氏の楽器はあらゆる意味で非常に繊細なバランスのとれたセットアップがなされていました。楽器全体に滞ることなく振動を伝えることができ、要求される様々な音色に対応できる柔軟性を持っていたのです。間違った圧力は結果的に楽器の良い振動を減らします。演奏(試奏)する側にとって大事なことは、まずその音を”聴こう”とすること。そして自分の身体全体をとおして加えたエネルギーに対して、楽器が返してくるものを受けとりまたそれに応える。良い状態の楽器というのは演奏者がそのようなコミュニケーションをとろうとすれば、その楽器のもつ個性なりの豊かな音で応えてくれるものなのです。さらには、滅多にあるわけではありませんが、本当に耳をすますことが出来れば楽器のほうから演奏者を”歌わせてくれる”ことさえあるのです。

一方でどんなにコミュニケーションにも応えてくれない楽器もあります。まるで「どうせ押してくるんでしょ?私はどんなに押されても平気だよ。」というふうに構えています。どんなに圧力をかけてもめげません。でもそんな楽器は大概こちらがどう試みてみても、単色で個性に乏しい判で押したように同じ音で返してきます。その音は”Loud”であっても”Rich”ではありません。色彩の変化が乏しいので演奏者としては「じゃあもっとビブラートでもかけてみようか」と…それはまるで一見立派だけど昔より栄養素の激減してしまっている野菜に、味が物足りないのでタップリと調味料をかけてしまうようなものです。そのようなものを摂取し続ければ人の身体や味覚はいったいどうなって行くのか。音と耳の関係も似ているような気がします。

このような”現代的ヴァイオリン奏法”または”楽器製作や調整法”の近年の傾向によって、弦楽器による音楽文化が失ってきたものは計り知れないと僕は考えています。ではそれを始めたのは演奏家か、楽器職人か?つまり演奏家が要求したことに楽器職人が答えたのか、それとも楽器職人がそう演奏家に弾かせたのか?卵が先か鶏が先なのか・・・

どちらにしろ本来、片方の世界だけではどうしようもない問題であり両者がお互いをもっと知り合い、素直に音に耳を傾け、より良い音と音楽のために共に高め合って行くしか道はありません。そのような柔軟な意識と耳を持った楽器職人と演奏家がもっと増えて一緒に協力しあうことができれば、私たちは音楽からより豊かなものを得られるようになると思うのです。