その貴重な蓄音機で聞いた演奏とはハイフェッツの小品集であり、パブロ・カザルスの演奏するバッハの無伴奏チェロのための組曲であり、リパッティのショパンやシューベルトであり、おそらくどれもが世界中で最も聞かれているレコーディングばかりでしょう。僕自身もそれまでに何度もCDで聞いたことのある演奏ばかりです。でもどの演奏も全くそれまでの印象と違ったものだったのです。

僕自身は普段、録音そのものはもちろん聞きますけども、録音のための器機類、技術そのものに人一倍こだわりがあるとか詳しいというわけではありません。そこには、少し知識をかじっただけではわからない魅力的な世界がきっとあるのだろうと想像する一方、演奏者としては今でも、同じ空間で聞くライブ演奏以上のものはないと思っています。いわゆる「雑音」やその場のアクシデント、演奏のミスや傷も含めて・・・ですから僕にとっては録音・再生の「技術」も「良い音」を聞き、自分の耳を開き、より成長していくための一つの要素、きっかけだと考えています。

おそらくそのレコードには、「人間の耳には聞こえないであろう」とか「不要な雑音である」としてCD制作などでは切り捨てられるような色々な「要素」が、より「そっくりそのまま」入っていたのだろうと思います。そこには当然「倍音」も含まれるでしょう。そしてその上で、蓄音機やレコードそのものの質とそれを管理、調整、再生してくださった方の技術や感性、それを聞いた空間を含む様々なその場のファクターが、実際に繰りひろげられたであろう色彩豊かな音の世界を、よりリアルに近いかたちで示してくれたのだと思います。

この体験から僕が得られた何よりも大事なことは、前回のブログで「違った音の聴き方をする非常に優れた人達がいた」と書きましたが、つまり、かつては現代の演奏家たちの一般的な音に対するアプローチ、奏法とは違ったものが歴然とあって、そして恐らく、私達はそれを失いかけている・・・ということを再確認できたこと。勿論上にあげた人達は歴史上最も良い耳と、最も優れた芸術性と技術を持った人たち、ということを差し引いての話ですが。

誤解をして欲しくないのは「なんでも昔は良かった・・・今はダメ」と言いたいのではありませんし、もちろんその正反対のことも同じことです。いつの時代にも素晴らしい耳を持った人もいれば、そうでない人もいるでしょう。また蓄音機は完璧で、CDや現代の録音技術には全く良いところがないと言いたいのでもありません。しかし大事な「要素」の抜けてしまった音を聞き続けることは、一見以前よりも立派に見えるけど、かつての野菜たちが持っていた栄養素の半分もないようなものを食べ続けているのと似ています。「耳」が変わってしまえば演奏法が変わり、楽器が変わり、聴衆の求めるものも変わり、そしてまた演奏家はそれに答えようとする・・・鶏が先か卵が先か・・・

私たちには本当に「良い音」が聞こえてるのでしょうか?「良い音」ってなんでしょうか?人はそこで鳴っている音を、皆同じように聞いているのだと思いがちですが、実はそうでもありません。あるものが目の前にあるのにも関わらず、人によっては時に全く意識に上らない、つまり「見えない」事があるのと同じように「聞こえない」ということもありうるのです。そして聞こえない音は、やはり自分で出すことは難しいのだとおもいます。しかし何度も書いているとおり人は変わることができます。耳もしかりです。倍音そのものについても、奏法や自分自身の身体の使い方を変え、意識的なよい訓練をするによって、今より多くの種類の「音」または「色」を聞き取れるようになることは可能なのです。私達はまずジャッジすることを一旦やめ、純粋に音に対して耳を澄まして見ることから始めるしかありません。

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